准教授 美紗子(01-)

2021年10月30日

准教授 美紗子(1)

『あの滝川美紗子が准教授になるらしい!』
 岩下透が学部の同僚から聞いたのは今年の二月だった。日経新聞にもその記事が載っていた。

 滝川美紗子は美貌を兼ね備えた中央テレビ局の深夜番組『ズームイン・ビジネス』の経済ニュース解説者で、ビジネスマンに抜群の人気があった。その彼女が東都大学の経済学部准教授に迎えられ四年生の金融市場(マーケット)の卒論ゼミを担当するという。

 それ以来、透は経済学部の掲示板を以前よりも隅々まで注視するようになった。透にかぎらす掲示板前はいつも経済学部の学生たちで賑わっている。いつ何時、学務課の職員によってゼミの募集要領が貼り出されるのか固唾を飲んで待っているからだ。

 二月の第三月曜日の二十一日。透が就活から大学に戻ってきた午後一時頃、運よく掲示板に学務課の職員が卒論ゼミの一覧と講義概要を貼り出したところだった。

 透はその中から滝川ゼミを見つけると学務課に飛び込んで届出を済ました。有名人や評判の良い、准、教授のゼミを受けるには所属学部の卒論ゼミの記事をいち早く見つけ学務課に届けでるのだが、応募が多いと学生を選考することになる。

 選考基準は三年までの履修科目の単位修得数と成績が優先され、プラスαとして届けでた順位が加味される。透はその両方でトップだった。

 滝川研究室は三号館の五階にある。広さは六十平米。准教授にしては破格の広さで教授と差がない。研究室の半分は蔵書の棚で占められ、残り半分が大きなデスクと応接間、そしてゼミの聴講生のスペースにあてられている。

 滝川ゼミが始まったのは、他の教授よりも一週間遅れた四月の第二月曜日だった。

 聴講生は週三回月、水、金の講義の時限には、美紗子の靴からヘアースタイルまで観賞できる前列の席を陣取るため、三号館を目指してキャンパスを猛進していく。ひどい奴になると前の科目をすっぽかしてまで、研究室の外で並んで待っている有様だ。

 それほどまでに聴講する価値があるのかと問われたら、文句なしに「ある!」と答えるだろう。もちろん男子学生のことだが。
 
 講義のたびに替わるお洒落な服装、女優に勝るとも劣らない美しい顔からは元テレビ局出身の澄んだ声が鼓膜を震わせる。そういった美紗子から発散する色気は男子学生を性的な陶酔へと包みこんでしまうといっても過言ではない。
 
 そういう前列の席に陣取る男子学生を女子学生は嘲笑っているが、それは、ひがみと思われても反論できない。女子学生が美紗子より優位なことは年齢が若いという一点しかないからだ。

 その前列に透がいるのかというと、いない。透は美紗子の顔が見える程度の列で、モバイルパソコンに講義内容を驚く速さで打ち込んでいたり、講義の合間に研究室の窓から見えるキャンパスに視線を預け、窓外の銀杏に翼を休めている野鳥を見たりしている。
 
 その透は野鳥を見つめながら、美紗子の講義内容は学問的に薄く熱意も欠けていると思っていた。経済紙(Wall Street Journal、USA Today)の記事からの引用があまりにも多く、准教授自身が思索、研究した成果を述べることは稀だからだ。

 透は視線を窓外から戻して美紗子を見つめると、美貌と有名人を鼻にかけてゼミの学生を見下していると切り捨てた。

 それは透だけが感じていただけで、多くの男子学生は彼女にぞっこんだった。ブランドのスカートスーツも、膝上の品のいい丈で美脚を魅せ、化粧も決まっていて、テレビ画面から抜け出たかのように眩かった。

 四月から講義を始めた、『1987年米国株の暴落ブラックマンデーから現在までの金融市場』の講義が終わった日だった。ひとりの学生が質問の手をあげて椅子から立ち上がった。その学生の名は岩下透。

 美紗子はその学生を学長から聞いて知っていた。入学試験をトップで合格し、一年生から三年生までの履修科目はすべてオールAだった。いつも、目立たない席で、講義内容をパソコンに打ち込んでいるのも知っていた。

 透が質問の論旨を展開すると、美紗子の顔色が俄かに変わった。これまでの講義内容(マーケット至上主義)に異論を唱えてきたからだ。その論旨は練りこまれていて理路整然としていた。

 そのはずである。透は三日間に亘って原稿を書いて頭に整理し、幾度となく誰もいない部屋で美紗子を想定して練習してきたからだ。

 透はまず、彼女が講義したマーケットの変遷に対し補足するような考察を加えてから本題にはいり、2008年アメリカのサブプライムローンに端を発したリーマンショック金融経済危機はマーケット至上主義に対する警鐘であり、いまや世界の経済は統制を必要としているとした。

 そして、「ソ連の共産主義が崩壊し、資本主義の金融至上論の行き詰まりが囁かれている現在、一国ニ制度を唱える中国経済が台頭しているのは、世界が新しい経済の模索にはいっているのではないですか」
と、最後を締めた。

 透は述べるべき内容の九割以上を口にすることができ満足して椅子に座った。滝川准教授を見ると戸惑いを隠せないでいる。透は手抜きゼミをしてきた准教授に、ほくそ笑むと着席した。

 ゼミ研が水を打ったように静まり返っている。学生たちは、透と美紗子を交互に見つめている。
 
 美紗子は混乱していた。まさか、受講生の分際で講義内容に反論をしてくる学生がいるなんて信じられなかった。硬い表情のまま、ともかくも自尊心を保つために一笑し、反論をかわすことにした。

「わたしのゼミは、現在の資本主義経済におけるマーケット論なのよ。将来の経済システムがどのように変わっていくか、それは未知なるものでしょう。それからG7の協調介入、日銀の単独介入も為替市場の統制なのよ。もちろん、岩下さんが良く勉強しているのは認めます。でも、わたしの講義に対するいまの質問……それとも反論かしら」

 美紗子はここで微笑してから、
「硬すぎます。経済のシステムは流動的で絶えず変動しているのです。その意味わかります」

「わかります」
と透は譲歩した。

 一発かませたまではよかったが、美貌の真顔にきつい口調で返されて頭がのぼせてしまい、それ以上、反論できる自信がなかった。

 透が譲歩したあとの沈黙に、美紗子はここぞとばかりダメ押した。
「学問以前の問題で、岩下さんは目立ちたがり屋さんなのかしら」と。


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2021年10月31日

准教授 美紗子(2)

 七月も中頃になるというのに梅雨の肌寒い日がつづいていた。キャンパスは半袖とジャケット姿の学生が混在して季節感がすっきりしない。

 透はゼミを欠席する日が多くなっていた。あの美紗子のダメ押しの、
「岩下くんは目立ちたがり屋さんなのね」
が、ボディーブローのように効いて、足が大学に向かないのだ。

 気が弱いくせに、あんなスタンドプレーをするからと自分では反省していたが、どうしても美貌を鼻にかけた講義態度に我慢できなかった。

 透は卒業するための未収得な単位は卒論ゼミだけで、これ以上、休むと取得できなくなくなる。そういうわけで透は久しぶりにゼミに出席した。というよりも出席せざるを得なかった。

 ゼミは空席がめだっていた。男子が美紗子の美貌に飽きたのもあるが、内定が決まっていない学生が就活を始めたのもある。そいうわけで、この日、透は前から二列目の椅子に腰かけた。

 その透に美紗子が一瞥してから視線を和らげて講義を始めた。透は目を逸らさないで美紗子を見つめつづけた。

 ダーク系のジャケットにタイトスカート。ジャケットはボタンが外されていて、ブラウスにアクセサリーのビジューが輝き、インテリジェンスなイメージを損なわない豊かさで、胸を盛り上げている。

 美紗子は講義用の大型液晶ディスプレイにグラフ化されているロンドン、ニューヨーク、東京の三大マーケットの対ユーロ、円の為替のことを講義している。

 学生の視線を意識した気取ったポーズは、まるで講義を大義名分にした滝川美紗子ショーと言っても過言ではない。

 あのときのことが…蘇ってきた。
 手抜き講義に我慢できなくて、単なる非難ではなく経済学的論理で反論した。その反論シナリオに三日間もの時間を費やして準備した。そのかいがあって完璧なまでの論旨の展開だった。聴講生も驚いていた。

 それに対して准教授の反論は真っ向からではなく、逃げるようなすり替え論に終始した。しかし、自分は目上の人に対する礼儀として譲歩した。なのに、『目立ちたがり屋』とダメ押しの恥をかかされた。そう……。自分はその悔しさを抑圧しているのかもしれない。

「岩下くん、岩下透さん!」 
 透は呼ばれていることに気付いて、はっとして顔をあげた。

 講義は終わっていて聴講生が教室から出ていくところだった。透も退室するべく椅子から立ったとき、准教授が近づいてきて小声で、
「岩下くん、ちょっとお話があるの、時間はとらせないから」と言ってきた。
 透はこくりと頷いた。

                       ***** 

 美紗子は研究室のソファーに腰掛けている。透はその美紗子の正面に座らせられている。

「このままだと単位を落とすわよ。それでもいいの」
「しょうがないです」

「しょうがないって、岩下くん、ゼミをいまから替えることはできないのよ」
「わかっています」

「だったらなぜ……」
「欠席するのかってことですか?」

「欠席もそうだけど、聴いていないでしょう。何か悩み事でもあるの。一人の学生にここまで立ち入ることはしたくないけど、岩下くんはトップの成績で合格したそうじゃない。わたしのゼミを選んでくれたこと光栄に思っているのよ」
「そんな」
 透はじっと見つめられて視線を下げた。スカートから露出した脚が否応なしに視野に入り込んでくる。

「あのこと、気にしているの?」
「あのことって」
 透は視線を上げると、知っていながら訊き返した。

「あなたの反論に対して目立ちたがりやといったこと。みんなの前で恥をかかせてしまったわね」
「そんなこと、ぜんぜん、気にしていませんから」
 透は造り微笑した。

「そう、よかった。でも、ごめんなさいね。言いすぎたわ」
 美紗子がゼミで初めて顔にスキのある微笑を湛えた。

 その美紗子の微笑が透に余裕を与えた。その余裕が透に思考力を与える。これまでの准教授との一連の会話と謝罪で透は美紗子の内面をこのように憶測した。

 …着任早々、四年生のゼミを受け持ったこの機会に、学長、教授たちに自分の能力と学生からの人気を見せ付けたい。そのためには最初の学生を全員、脱落させることなく無事に卒業させて信頼感を得たい。

 万一、トップ成績で入学し、その後も優秀な成績を維持した学生に嫌われ、途中で出席拒否でもされたら痛い汚点を残すことになる。

 その准教授が訊いてきた。
「内定は?」

「地銀が二社です」
 透は応える。

「そう…」
 美紗子は頷いてから、考え深そうな表情で返す。
「岩下くんが、このまま優秀な成績だったら、わたしから中央テレビに推薦してもいいわよ。もちろん東京本社。あなただったら、あらゆる部門で活躍できそうだもの。マスコミ関係に興味がなかったら別だけど」

「そんなこと、ありません」
 透は美紗子のサプライズに驚くが、ともかくも返す。

 その透に美紗子の顔が僅かに綻んだ。そして、
「ここだけの話だから、他の学生にはいわないでね」
と、二人の秘密の関係よとばかり美紗子は顔の表情を和らげた。


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